たねなしプルーン

徒然なるままに

マックドナルドイングリッシュ

体重を増やそう、増やそうと思っていた時は98キロまでいった。

100キロの壁があるとよく言うけど、僕の場合は99キロの壁はでかかった。それで色々あって最近は72キロで安定していた体重、それ以上減らなかったけど遂に72キロをきった。不思議

 

今日帰りしな、マクドナルドに寄った。本読んでたら隣の隣のお隣さんのおじいちゃんが外国からきたお姉さんと何やら楽しそう。目は開いたまま耳をそばだてて、何話してんだろと。

 

気合いの国際交流だった、おじいちゃんの口からはイエスとグッドとナイスくらいしか発されてなかった。あとはすごい!とか全部日本語。少し変則的なキャッチボールかもしれないけど、なにより二人とも楽しそうだった。「英語喋れないから」でシャッターすんのってもったいないよね。

 

先日すき家に行った、僕が店に入るのと入れ替わりで少し悲しそうな顔をした外国人カップルが店を出た。店内に入ると40、50代のおっちゃん店員が何やらブツブツ。「ありゃダメだ、しょうがねえよな、言葉が通じねえんだもん。」

 

あー、そう言うことか。少し悲しくなった、いやだいぶ悲しかった。

やたらと威勢のいい接客をしてくれたのに、取り外し式かな、その威勢は。

方法はたくさんあるじゃん、それになんで周りのお客さんは助けてあげなかったんだろう。

 

そんな事もあったから今日そんな2人がマクドナルドで見れて凄い嬉しかったし素敵だと思った。だって楽しそうだったし、男性と女性ってのも良いじゃん。若いお姉さんとおじいちゃんってのも良いじゃん。

 

そうだ、今週末英検があるね。久しぶりだね、やられっぱなしってのも気持ち悪いからケリをつけるわ。

ハッパかけたげる。

 

f:id:iwaiyuke:20181002231523j:image

 

 

 

カルチャー日記:メゾン・ド・ヒミコ movie

2018.10.01 mon

やさしい映画だな、すごいやさしさに包まれたようなそんな作品だった。

温かくて、その温かさは僕ら誰しもが持ってる、そんな気がするしそう信じたいと心から思う。

画面の中のみんなが凄く輝いてる。生き生きしてる、楽しそうに人生を自分の人生を謳歌してるってこういう事なんだよって語らずとも一番分かりやすい形で教えてくれた。

 

そう、ゲイの話。

登場人物のほとんどはゲイ。この映画は2005年公開、今は2018年。最近もたくさん耳にするよね「LGBT」。これはその中の「G」の人達のお話。

 

いつの時代だって議題に取り上げられるくらいだから、世の中の人は興味関心があるんだろうね。うん、そんな世間の強い風当たりをもちろん画面の中のゲイたちも受けて生きてきたんだろうな。ゲイっていう事で差別されたりひどい事を言われたりもしてきたんだろう、周りに打ち明けられないまま生きてきた人だって。それでも自分を騙さずに生きてきたその姿はとても僕の目にはかっこよく映った。だからこそ感じるやさしさというか、それこそ強さの中の優しさっていうのをとても感じた。

 

色気がある映画だった。

その中のリーダー的存在の田中泯さん演じる「卑弥呼」っていう人がいるんだけど、もう何なんだろうなー。すごいんだよな、言葉がいらないんだよ。いらないというかなくてもいい。圧倒的なまでの存在で、だけど圧迫感があって威圧してくる感じじゃない。人生の酸いも甘いも知り尽くしてるんだろうな、深い、とてつもなく深いやさしさ。あの人は性行為みたいな言葉の交わしあいができる人だと思う。美しい。

 

オダギリジョーさんは言わずもがな。美しい綺麗な男だった。

「愛とか意味ねえじゃん。欲望なんだよ、それだけなんだよ、俺はそれが欲しいんだよ」のシーン。あのシーン、演技は頭から離れない。

柴崎コウさんの目、強かった。他にも皆さん印象は強いけど特にルビーは強い。素敵だった。バチッと決めた姿には痺れた。

 

僕らは人間で、それが一番下の土台になってるもの。それは人間みんなに共通してるもの。それでその人間という土台の上に何が乗っかってるか、乗っけるかは人それぞれ。生き方、思想、夢。もちろん自分の上に積み重なってないものを積み重ねてきて持ってる人が必ずいるわけで、それを見たときにああ魅力的だな、好きだな、つまんねえな、気持ち悪い。色んな感情が生まれて行ってそれもまた自分の上に積み重なっていくんだと思う。

 

全ての事を「はい、そうですか」と簡単にすんなりと受け入れる事ができるほどみんながみんな強くはない、果たしてそれを強さというのかどうかすらも分からない。

 

それでも僕らはみんな人間で、人。同じ人間だからこそ分かりあえるってのはある。きっとある。そんな不思議な魅力を我々はきっと持ってる。

そんなことを改めて今考えてる。

カルチャー日記:日本の結界 陰陽師が明かす秘密の地図帳 book

2018.09.30 sun

方位!定礎!結!滅!

僕にとって懐かしい思い出深い漫画のひとつである「結界師」を思い出しました。

f:id:iwaiyuke:20180930191154j:image

うわ、懐かし、読みた、読も。

 

 

ページをめくる手が止まらないわけですよ、そりゃあ民俗風習風俗妖怪に心惹かれ続けてきた僕にはどストライクの一冊であったわけです。

 

著者は陰陽道の術の大家である安倍晴明の末裔であられる安倍成道さん。この方は安倍晴明の血を継ぐ「水の家系」第27代陰陽師なのであります。

 

聖なるものを守り、邪なものを断つ結界。実は意識してないだけで我々の生活の中にもごく普通に結界は存在するらしい。例えば食事における「箸置き」、これも一種の結界だと。

 

うーん楽しい!凄く興味深い!

五感による知覚として視覚から得る情報は八割近いらしい、言い換えれば人間にとって見えるものっていうのはとても重要なものだと。

でも妖怪だとか結界っていうのは全ての人々が見えるものではないよね、だからこそ少しいかがわしくも感じる。

この世界にはきっと科学的には証明しきれない事、非科学的な事は存在する。僕ら人間にとって目に見えるものや、科学的な証明が施されているものだけで世界は構成されてるわけではないんだなー。宗教だとかお祭りとかもそうだし。

 

僕らが知らないだけで、陰陽師や宗教における儀式や皇室での祭祀、例え科学的に説明出来なかったりする行為が行われてきたからこそ我々は今こうして生活できているんだろうなと本当に感じる。

 

それにしても安倍晴明は本当に超人だな、当時の平均寿命の二倍近く生きて、本宅とは別に五人の側室もいて、それぞれに家庭も持ってモテモテだし、「英雄色を好む」とはよく言ったもんだなー。晴明の張った結界は1000年近く経った今でも全然弱まってないらしい、しかも一人で張ったらしいよ、今の陰陽師も完璧すぎて触れないらしい。こんなのかっこよすぎん?

 

星の王子さまだねー、大切なものは目に見えない。

 

一理あり!

 

あー、すっごい面白かったなー

今度は播磨より西について知りたいな

キーワードは蘆屋道満!これまたそそる名前だねぇ。

カルチャー日記:働くことの哲学 ラース・スヴェンセン book

2018.09.29 sat

いやー、何というかタイムリーな本を手に取ったものだ。ま、論文なのかな。

今、窓から外を覗いてみてもたくさん働いている人がいる。似顔絵描いてる人、呼び込みしてる人、服売ってる人。耳をすませてみると後方からは「上司がさぁー」と休日のOLの語らい。

言わずもがな「仕事」というのは我々の生活を形成するものである事が分かる。初対面の人に対して「お仕事は何をされているんですか?」と問うことがある事からも「仕事」というのはその人自身を位置づけ、形作るものでもあるということができるよねー。

 

手段なのか目的なのか。仕事は人々にとって単なる金稼ぎであるための手段なのか、それとも自己実現を目指すべきでの目的であるのか。著書には現在では圧倒的に後者の考え方が主流になると書いてある。個人主義の出現によって僕たち私たちには、自分に対する新たな責任が、すなわち自分らしい自分になるという義務が課された。と。真の自己っていうのは自前の自己で、今となっては労働はその自前の自己を創出する過程における1つのツールだと。

 

仕事が金稼ぎのための手段だとしても、自己実現のための目的だとしても自己が満足した形で人生に幕を閉じることができたら最良だと思う。「仕事」は確かに我々を位置づけて形作るものではあるが、同時に我々の全てではなくて一部分の単なる要素であるとも言うことができる。

 

哲学は人間そのものについての仕事。人間の自己理解みたいな事をウィトゲンシュタインが言ってた。「へー」、だよね。

僕は哲学とは自分なりの良い距離感で折り合いをつけて生きていこうかなー。

 

充実した日々、人生とは何なのか。幸福とは私たちにとってどういったものなのか。その中における仕事はどういった役割を自分の中では持っているのか。時には考えてみても良いなと思う。

 

いや、それよりも自分にとっての幸福とはなんなのか幸せとはなんなのかって事について考えてみたほうが、自ずと自分の中での仕事の位置も見えてくるんじゃないかなーなんて思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

カルチャー日記:ディストラクション・ベイビーズ movie

2018.09.28 fri

うーむ、そもそも映画の役割なんぞ分かんないし。意味不明だったで片付けてしまうのもどこかお門違いな気がしてしまう。

かくいう僕は鑑賞後そんな気持ちには捉われなかった。確かにこの映画は説明的な作品ではないし、ただ淡々と流れていくだけと言われればそうかもしれないけれど、僕にはたくさんの人が闘って殴りあって蹴りつけあって完成したものだと感じ取れた。その戦はまだ終わってないんだろうなとも思う。

主演は柳楽優弥さん、好きなんだよねぇ。「誰も知らない」での演技本当に素晴らしかった、それに当時の柳楽さん少し弟に似てんだよね。それは脇に置いて。

 

一本通してほとんど喋らない柳楽優弥、口を開いたと思ったら「楽しければそれでええけん」、次の瞬間には暴力、血、暴力、血。

映画冒頭、耳に残る音楽から始まる。まるでこれから起こる不吉な何かを予感してるような音楽。(this is 向井秀徳)それに応えるようにして始まる暴力!暴力!ただ暴力!そして暴力の産物これまた暴力、副産物これも左に同じく。

果たしてそれは若さゆえの狂気なのか衝動なのか強さに対する憧憬なのか説明はなく、画面上で繰り広げられるその惨禍を見つめていると、ふと思い出すのは泰良(柳楽優弥)が放った「楽しければそれでええけん」のセリフ。ああそういうことかぁとため息と手をつないで心の中で2人して天を仰ぐ。

 

目、顔、表情から嫌でも見て取れるような狂気。殴られて倒されて血まみれになっても立ち上がろうとする。一頻り殴った後に「まだいけんだろ?」震えたねぇ。

単純作業の如く習慣的な暴力、破壊。狂気とは一線を画しているような純粋な暴力。連続的に作業的に行われるそれにいつの間にか僕も影響され清々しさまでも感じさせた。人間って不思議だな。

 

何かをきっかけに覚醒する僕らの心の中にあるもの、それが狂気なのかなんなのか。その覚醒は自己を昇華させるものなのか、破滅に導くものなのか。それぞれが抱く正しさは誰かを殺してしまうものになるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

登山下山

いよいよ夏の終わりが目を細めるとうっすらあちらに見えてきました。

 

気温もそうだし、街を行く人々も、空気でさえからも今年の夏は働いたと声が聞こえてきて

カレンダーをふと見ると8月は終わっていて、本日ここに9月1日が9月の始まりを声高らかに

空は一面曇り空で今にも降り出してきそうな雨が夏の終わりを加速させるのではなかろうか。

 

部屋には、僕の部屋には花が飾ってある。部屋に花があるなんて初めてだけれど、それは良いものだなと思う。空間を彩ってくれる力がある、パウワーを感じる。

 

僕は花瓶なんて持ち合わせてなかったから、2リットルペットボトルで即席花瓶をつくったんだ。枯らせたくなかったんだ、少しでも長生きをしてほしいな。

 

こんなに綺麗だと花にすり寄りたくなる気持ち、そこはかとなく分かるよ。花の蜜、甘い蜜に寄って酔って依って。

小学生の時下校中、紫色の小さな花の蜜を友達と一緒に甘い、うまいだ言いながら吸っていたのを思い出した。でも今は吸わないなあ、見当たらないなー。

 

僕が自分からお花屋さんに赴いてこの花を家に持ち帰ったわけではなくて、これは人から頂いたお花。

 

昨日、僕たちは舞台に立った。これはその際見に来て下さったある人から頂いたお花。

花を頂く機会なんて今まで生きてきた中でそんなに多くなかったからとても驚いた、そして素直にすごく嬉しかった。そのお心遣いが素敵、粋。

 

その舞台は昨日8月31日に開催した、8月最後の日、夏休み最後の日みたいだ。って言って決めたんだ。それが終わった、いよいよ終わって始まる。2学期。

 

 

夏休み明けはみんなちょっとだけ別人に見える ?

いやいや変わってないさ同じさ同じ

別人に見えるんじゃなくて、別人なんじゃないの?

2か月もあったら変わるさ、変わんない方がおかしいさ

黙れよ定点、定点カメラが

お前の場合は「夏休み」明けない方が良かったんでね?

休み前の方が身の丈に合ってたよ

減らず口だね、お前も

身長は伸びたさ

身体的な問題じゃないの

だってオーバーサイズのTシャツがインナーだよ

それは確かに身の丈に合ってる。

 

明けて弾む会話、自らの変化と他の変化を右目左目開いて瞑って確かめて。

 

関係ないわよ、そんなこと。話ができない、あなたとは?

いえいえ、それは違います。話はできます、誰とでも。

ただただ、何も生まれずに。君の瞳の中に、僕は見る。

飼いならされた、そりゃ、獏だねぇ。

 

多いんだなぁ、けっこう多いんだなぁ。ダメなんだなぁ。これは。

気を付けるべし、律するべし。

 

あらあらあいつそういや、夏休み明けても来ないじゃん。

どうしたんだろうな

どうもこうもねえよ、知らねえのか?

なになになに、前から何だかおかしなやつだとは思ってたけど

まさか

そのまさかなんじゃない?

どこどこ?

雲の上らしいよー

はぁ?

悪化だなこりゃ、おう悪化だわ

いやいや地上から雲の上じゃん、そりゃあ

上昇か!

上昇だ!上昇

だから見えないんだなぁ、見えなくなっちゃったんだなぁ

上昇は悪化なの?

悪化は上昇なの?

知らんけど、とにかく!あがっていっちゃったの

だな、だってもう見えないもん。

たまに見えるのは

あれは降りてきてくれてんだろうなぁ

登山下山だよ

 

 

さぁさぁ8月31は明けたよ、下山。

 

登山だよ登山、上がっていくんだよ。f:id:iwaiyuke:20180901160906j:image

 

 

 

 

 

地元で起きた事故から

今日僕の地元で事故があったらしい、それも人身事故。

人が亡くなったらしい、死んでしまったらしい、最寄駅から目と鼻の先の線路内で。

 

詳しい事はよく分からないけど、僕はこの情報をSNSを通じて知った。

それからネット検索をかけるとニュースになっていて、ああ本当なんだとそこで初めて強く事実として目の前に突き付けられた。

 

自ら命を絶ったのか、それともそうでないのかは僕には分からない。

みんなが朝を始めようと乗る電車は一時間ほど運転できず、止まっていたらしい。その電車の中には様々な目的を持った人々が乗っていたんだろう。

 

出勤する人、通学する人、誰かに会いに行く人、届け物を届けに行く人、何かから逃げている人、休みを満喫している人、それはそれはたくさんの人が一つの電車の中にいたと思う。

 

この心に生まれたえもいわれぬ感情なのかなんなのかを整理しようと書き始めたがやっぱり難しい。

 

人が死んでしまう事と人が自分を殺してしまう事。

この二つの間にはたくさんの違いが存在する。

 

人は死んでしまうとこの世界から消える、いなくなってしまう。

「死」という事実は同じ、

 

人が人を殺すと罪に問われる、至極当然。

しかし人が自分を殺すと、罪には問われない。というべきなのか罪を問う事ができなくなるというべきであるかもしれない。

 

だからといってそれは許されることではない、自ら人生に終止符を打つ、その自発的な行動がなければ心臓は動き続ける、与えられた分だけ。それを途中で断つのはやはり自然なことではない。不自然な事だと僕は思う。

 

でもそう考えると延命治療なんてのも不自然なのかもしれない、与えられたものを伸ばそうとしてるから。そこが人間の傲慢さの表れともいえるのかな。

 

人が死ぬのは自然な事、人が自分を殺すのは不自然な事。

 

人が死んでしまうとどうして悲しいんだろうとも考える。

 

いつも座ってた彼の席は空席になっても「彼の席」であり続けるだろう、いつも使われてた彼の箸は「彼の箸」で。彼の席は決して「席」には戻れない、彼の箸は決して「箸」には戻れなくなってしまう。

 

母は彼の母、父は彼の父、弟は彼の弟、兄は彼の兄。そこに彼はいなくても、そう在り続けるのだ。

人が死んでしまうと悲しいのはその人の生きてきた時間の中で関わってきたものたちはとり残されてしまうから、一緒に消えてしまうことができないからなのかもしれない。

 

残された人々は彼の使ってたものを、存在する自分とその自らの手で触ることができ、感じる事ができる。そこにはきっと紛れもなく彼の存在を証明してくれるものがある。

 

持ち主や行き場を失ってしまった存在が彼のいない世界に取り残されてしまうから。

 

彼は今確かにいないけれど、彼は確かにここにいた。その事実が、

 

 

 

 

ご冥福をお祈りします。