たねなしプルーン

徒然なるままに

地元で起きた事故から

今日僕の地元で事故があったらしい、それも人身事故。

人が亡くなったらしい、死んでしまったらしい、最寄駅から目と鼻の先の線路内で。

 

詳しい事はよく分からないけど、僕はこの情報をSNSを通じて知った。

それからネット検索をかけるとニュースになっていて、ああ本当なんだとそこで初めて強く事実として目の前に突き付けられた。

 

自ら命を絶ったのか、それともそうでないのかは僕には分からない。

みんなが朝を始めようと乗る電車は一時間ほど運転できず、止まっていたらしい。その電車の中には様々な目的を持った人々が乗っていたんだろう。

 

出勤する人、通学する人、誰かに会いに行く人、届け物を届けに行く人、何かから逃げている人、休みを満喫している人、それはそれはたくさんの人が一つの電車の中にいたと思う。

 

この心に生まれたえもいわれぬ感情なのかなんなのかを整理しようと書き始めたがやっぱり難しい。

 

人が死んでしまう事と人が自分を殺してしまう事。

この二つの間にはたくさんの違いが存在する。

 

人は死んでしまうとこの世界から消える、いなくなってしまう。

「死」という事実は同じ、

 

人が人を殺すと罪に問われる、至極当然。

しかし人が自分を殺すと、罪には問われない。というべきなのか罪を問う事ができなくなるというべきであるかもしれない。

 

だからといってそれは許されることではない、自ら人生に終止符を打つ、その自発的な行動がなければ心臓は動き続ける、与えられた分だけ。それを途中で断つのはやはり自然なことではない。不自然な事だと僕は思う。

 

でもそう考えると延命治療なんてのも不自然なのかもしれない、与えられたものを伸ばそうとしてるから。そこが人間の傲慢さの表れともいえるのかな。

 

人が死ぬのは自然な事、人が自分を殺すのは不自然な事。

 

人が死んでしまうとどうして悲しいんだろうとも考える。

 

いつも座ってた彼の席は空席になっても「彼の席」であり続けるだろう、いつも使われてた彼の箸は「彼の箸」で。彼の席は決して「席」には戻れない、彼の箸は決して「箸」には戻れなくなってしまう。

 

母は彼の母、父は彼の父、弟は彼の弟、兄は彼の兄。そこに彼はいなくても、そう在り続けるのだ。

人が死んでしまうと悲しいのはその人の生きてきた時間の中で関わってきたものたちはとり残されてしまうから、一緒に消えてしまうことができないからなのかもしれない。

 

残された人々は彼の使ってたものを、存在する自分とその自らの手で触ることができ、感じる事ができる。そこにはきっと紛れもなく彼の存在を証明してくれるものがある。

 

持ち主や行き場を失ってしまった存在が彼のいない世界に取り残されてしまうから。

 

彼は今確かにいないけれど、彼は確かにここにいた。その事実が、

 

 

 

 

ご冥福をお祈りします。